
ライフコーチ|Spirits 主宰|里咲
Vision : 今すぐ理想の自分として在る
1995
看護師歴 8年
2024.04‐10 Life Coach World 修了

幼少期
九州の田舎の出身。三兄弟の長女として誕生した。
物心ついた頃から、祖父母親戚に「しっかりしてるね」と言われていた記憶がある。自分でも、「私はしっかりしてるんだ」と思って育ってきた。
家族は揃ってご飯を食べて、リビングで集まってお話したり1年に1回は旅行に出かけたり、いわゆる「幸せな家庭」で育ったと思う。 小さい頃から今までずっと仲良しだし、家族全員のことが大好き。
でも、一番古い記憶として私の中に強く残っているのは、家族の誰かの不機嫌を察知して、「何とか機嫌を取らなきゃ、自分がこの場を収めなきゃ」と不安になってはらはらしている4歳くらいの自分。
きょうだいの癇癪や、当直の父の不在、母の無言。人がイライラ、ピリピリしている状況が怖かった。 そういう空気を4、5歳にして敏感に感じ取っていた子どもだった。
幼稚園の時から、将来の夢は?と聞かれると「看護師さんになります」と言っていた。 今思えば、親や祖父母が「しっかりしていて偉いね、お母さんと一緒の仕事がしたいんだね」と嬉しそうだったし褒めてくれたからそう言っていたんだと思う。
医療職の両親から言われていた影響もあり、この頃にはもう「将来は資格を取って仕事をするんだ」という意識があった。
小学生
「自分はしっかり者」のセルフイメージを強くしたまま小学生になった。学級委員長をしたり、6年生のときには児童会長をしたり。
リーダーシップをとるのが好きだったというよりは、立候補して投票で選ばれること、先生に頼りにされることや、両親に褒めてもらうのが嬉しかった。
「誰かに認めてもらう」「選んでもらう」ということに過剰に価値を置き始めた時期だと思う。
大人の顔色を窺うのはすっかり板について、10代を通して私には反抗期がなかった。
中学生
地元の公立中学に進学し、平成のど真ん中で思春期を過ごした。 1軍、2軍…なんていう概念が生まれたのはこの時期なんじゃないだろうか。 昨日仲良しだった女子たちが、今日は誰かを仲間外れにしていたりして、自分も女子ヒエラルキーにすごく悩んだ記憶がある。
中間・期末テストの順位が発表されるようになった。良い順位を維持できていたので、医師になりたいと思うようになった。
医師がどんな仕事かなんて考えたことはなかった。お給料も社会的地位も高そう。医師になればみんなからすごいと思ってもらえそう。そういう動機だったように思う。
勉強に励む一方、部活動が楽しかった。 吹奏楽部でトランペットを吹いて、3年生のときには部長をして、コンクールやマーチングコンテストに挑戦した。
「高校で吹奏楽をやりたい」という気持ちが強くなって、進路に迷った。
いい学校へ行って、成績がよくて、安定した職業につくことが大事で、価値のあること。 吹奏楽の強い高校に行くなら勉強はできないし、勉強をするなら吹奏楽を諦めなくてはいけない、二者択一だと思い込んでいた。だったら私は後者を選ばなければならない。
今思えばこの時すでに、「楽しくて好きなことを基準に選ぶなんて逃げだ、『普通で正解の方』を選ぶべきなんだ」という、苦しい思い込みが出来上がっていたように思う。
結局「吹奏楽をやりたい」という気持ちは親にも先生にも話せず、何とか自分の中で折り合いをつけて、地元を出て私立の学費免除特別奨学クラスに進むことを決めた。

高校生
6時発の始発に乗り、1時間半かけて市外の高校まで通った。
入学して初めてのテストで、下から3番という順位を叩き出した。自分が井の中の蛙だったことを思い知った。自分には医師になれるほどの学力がなかったことにも一瞬で気付かされた。 本当に忘れもしない、暗い高校生活の始まり。
すぐに授業に追いつけなくなって、そのうち追いつこうとすることすら辞めた。
入学して2ヵ月して、高熱を出し髄膜炎と診断されて10日間入院した。今思えばストレスだったのかも。
退院して、親に「学校を辞めたい」と泣いて言ったことがあったけど、一言「そんなの無理に決まってるでしょう」と返って来た。
自分でも、頭では、自分で選んで行ったんだから辞めるなんてできる訳がないとわかっていた。3年間通うしかないんだと思って絶望した。
授業はほとんど寝ていた。ひどい肌荒れにも悩んだ。
ELLEGARDEN、RADWIMPS、チャットモンチー、アジカン…毎日往復3時間の電車の中で聴く、邦楽ロックだけが当時の私にとっての救いだった。
今思えば私にとって勉強は、自分の出来を数字で表すために都合の良い、親や先生から認めて・褒めてもらうための道具なだけだった。この時に「勉強は他人との優劣をつけるための道具じゃない」と気付けたらよかったけれど、勉強ができる人はすごくて、できない自分には価値がないという思い込みを捨てられなかった。
大学進学を決めるときには、自分がどうしたいかを深く考えることもできず、今さら浪人して勉強に打ち込む気もさらさら起きなかった。結局最後に縋ったのは親からの「資格を持って生きなさい」という言葉。思考停止で出願した看護学科に推薦で合格し、進学が決まった。 「高校生活を楽しめなかった」という暗い思い出が残った。
大学生
その分、大学生活は楽しかった!
陸上部に入って、フルマラソンを走って。部活の遠征や友人との旅行で色んなところに遊びに行ったし、カフェやユニクロ、ラウンジでのバイトを通して色んな世界を見られたのも良い経験になった。
この頃私が機嫌を窺っていた対象は彼氏だった。
どうしたら相手が喜んでくれるか、好きでいてくれるか考えてとにかく尽くした。本当はもっと愛情表現をして欲しかったけれど、嫌がられるようなこと、相手の負担になるようなことはしてはいけない。聞き分けが良いのが自分の良い所だと思っていた。
そんな関係性は段々歪んでくる。自分の希望は言えないままでも尽くしまくって、見返りを求めても与えられずある日急に自分が冷めるという恋愛を、この後社会人になった後も数年、何度か繰り返した。傷つけられたことも、逆に傷つけたこともたくさんあった。
プライベートが充実している一方で、大学でも勉強には励めなかった。面白いと思って聞けた授業はほとんど無く、休めるコマを限界まで休んだ。4年間を通して、長期の実習やグループワーク、山のようなレポートを乗り越えてきたけれど、そのすべてが絶望的に煩わしくて嫌だった。とにかくテストをパスして進級すること、国家試験に合格することだけが目的になってしまっていたと思う。
そんな風にして、看護の本質とは向き合わないまま看護師になった。

新卒 病棟勤務
だからこそ入職して早々、リアリティショックに打ちのめされた。
看護師ってこんな仕事なの…?と、患者さんのオムツを変えながら思ったのを今でも覚えている。4年間勉強したはずなのに、実習も来ていたはずなのに、わたしは自分が就く仕事のことを何も学んでなかったんだな、と思った。
けれど、早く仕事を覚えて先輩の分の仕事や記録まで終わらせたら褒めてもらえるから、仕事は一生懸命やった。 新しいことを覚えて、職場の一員として任される仕事が増えていくのは嬉しかった。
循環器内科病棟で働いて3年間経ち、患者さんとのやり取りのなかにやりがいも覚えるようになっていた時、希望していない手術部に異動になった。
手術部異動
異動してからは、また興味のなかった手術看護を勉強しなくてはいけなくて、人が足りなくなった部署にただ駒のように異動させられて、私の存在意義とは?と考えることが多くなった。この組織において、私はいくらでも替えのきくただの働き蟻なんだな、とも。
けれど、手術部は一つひとつの術式を覚えていってどんどん次の術式に進んでいくというミッション形式で、これがとにかく私の競争心や成長意欲みたいなものに火をつけたし、毎日仕事を覚えていくのがすごく楽しかった。
この頃、今の夫と出会って付き合い始める。年上としか付き合ったことがなかった私が、唯一付き合った年下。大らかで、ポジティブで、今までに出会ったことのないようなタイプ。真逆の性格で戸惑うことも多かったけど、これまで彼氏の顔色すら窺って生きてきた私にとっては、そうさせない彼との生活は本当に新鮮だった。
バーンアウト
全ての術式に入り終えたころから、だんだん火が消えるみたいに仕事が面白くなくなっていった。今思えば看護師の仕事に対してのバーンアウト状態だったと思う。
何かに熱意を向けたくなり、この頃からブログ、ライティング、株式投資など、副収入を得るために行動し始めた。看護師の勉強をしているよりは面白かったけど、どれも長続きしなかった。
仕事が面白くない、夢中になれるような趣味はない、副業も思ったように形にならない。
小さい頃から、学校で良い成績を取れば、いい高校・大学に行けば成功だ、社会人になれば、もっと給料が増えれば、彼氏ができれば、結婚すれば、…と、足りないものばかり数えて、将来いつかすごく幸せな未来が来る!と信じて、夢を見続けていた。
けれど、職場の先輩や上司たちを見て、未来の自分の姿を垣間見た気がした。
仕事がキツイと言いながら働くしかなくて、休憩室ではいつも職場の待遇や同僚、旦那さんへの不満を零して、子どものお迎えに忙しく帰っていって。
ここが私の人生の天井なのか。思っていたのと違う。こんなの納得できない、と心の底から絶望した。
そうして「このままじゃ駄目だ、どうにかしなくては」と焦燥感に駆られていたとき、本屋で偶然手に取った本を通してコーチングと出会った。

納得感のない人生の正体
クライアントとしてコーチングを受けて、これまでの人生を一つずつ振り返っていった。
そこで明らかになったのは、
なにか差し出さなければ、人の役に立たなければ、自分には価値がないと思っていたこと。
進学・就職・キャリアアップという人生の岐路だけではなく、友人や彼氏との付き合い、職場での立ち回り、家族との会話といった日常の何気ない瞬間など、人生のあらゆる場面において「自分がどうしたいか」ではなく、周りにどう思われて、何を求められているかばかりを気にして決断してきてしまったこと。
誰かの目ばかり気にして消耗して、ずっと生き辛かったこと。
看護師の仕事に段々納得感を得られなくなってきていた理由もわかった。
「親が資格を持って生きろって言ったから」「安定した職業につくことが成功だって信じていたから」といって、自分ではなく周りの意見を大切にした結果なんですって被害者面をしていた。
それは結局、大事な選択に自分で向き合うことができずに人のせいにしているだけで、そんな自分のことが恥ずかしくもなった。
私は小さな頃から、「自分がどうしたいか」を無視して、他人軸基準の選択を積み重ねてきた。
だからずっと納得感がなくて、「何か違う気がする」って彷徨い続けていた。
そんな選択を続ける日々に、もうとっくに限界が来ていたんだ、と思った。
痛みの先に見えたもの
このことに気付いたときは、これまでの私の人生って何だったんだろう?と絶望したし、 セッションを通して過去の自分と対峙する体験は、毎回とても辛くて、痛みを伴うものだった。
けれどその痛みをちゃんと噛み締めて、「ないもの探し」をやめて、自分が持っているものに目を向けて見たら、
思えば支えてくれる大切な友人がいつもそばにいてくれたことや、
もう生き辛いのはやめていいよ、ありのままそこにいてくれればそれでいいんだよと言ってくれた夫がいること、
両親の言葉もすべて、私のためを思って言ってくれていた言葉で、そこには愛しかなかったんだということに気付くことができるようになった。
なにより、今の自分がここに存在するのは、たくさん失敗してきたし後悔もあるけれど、これまでの人生を生きてきた自分がいてくれたからだと思えるようになって、生まれて初めて自分のことが好きだ、大切だと思えるようになった。
そうしたら、世界が変わったみたいに生きやすくなった。
コーチングと出会えて自分と向き合う経験ができたことは、本当に幸運だったと思う。 でなければ私は一生「なんか違う気がする」で人生を終えていたかもしれない。
今はやっと自分がどうしたいかを基準に毎日を選ぶ方法が分かり、 望む方向へ向かうことができるようになって、
毎日にどこか生き辛さを抱えていたのが嘘のように 今は「自分として生まれてきてよかった」「自分の人生が大好きだ」と思うことができている。
私がコーチとして在る理由
あの頃の私のように、 自分でも気付かないうちに不本意な選択を重ねて
静かに息苦しさを抱えながら 消耗し続けている誰かがいるとしたら。
誰かのために、無意識のうちにも頑張れてしまう あなたのその強さや優しさや感受性は
本来、大前提として、あなた自身の幸せのためにあるものなのだと、 そう、伝えたい。知って欲しい。
そのためのコーチングを広めることが わたしの使命かもしれない。それを遂行したい。
迷い葛藤しながらも自分の人生を生きたいと願う、 そんな女性たちに出会いたい。
私の持っているものが、彼女たちの人生の役に立つのであれば それを惜しみなくシェアしたい。 そのための場があったらいい。
そう考えて、今度は自分自身がコーチングを提供する側になりたいと思うようになり、 Spiritsをつくるに至りました。
コーチングで自分自身と向き合う作業は、楽しいだけの道程にはならない。 痛みや苦しみが伴うことも多くあるでしょう。
けれど、それを乗り越えたときに行ける こんなにも息がしやすいのか と驚くような世界を私は知っています。
私のことをコーチとして選んで頂けるなら、あなたがそんな世界に行けるように
あなたが、あなた自身と向き合う過程に 全力で伴走させてもらうことを約束します。
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